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大好きな東京から発信する建築系クリエイティブユニットmosaki(田中元子+大西正紀)のブログ

建築は「あらゆるなにかを、しあわせななにかに向けて構築していく学問」だ!

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「ちゃんとしてる建築家は生き残って、そうでない建築家は淘汰されるだろう」って聞くたびに、こんなの何も言っていないも同然じゃん、って内心呆れてんだけど、ここでいう「ちゃんとしてる/してない」って、一体、何のことなんだろうか。仕事がたくさんあって、稼げてるってことだろうか。設計がうまいってことだろうか。有名だってことだろうか。それとも、勤勉だってことだろうか。

 


いずれにしても私は、こんだけたくさんの建築学科があって、毎年多くのひとが建築を学んで世に出て行くのなら、そして彼らが建築を愛しているのなら、できるだけ、建築に携わる仕事に参加できたらいいのにな、と思っている。

センスなり設計力なり、よくわかんないけど、とにかく、何らか特別な才能に秀でたひとだけが生き残って、そうでないひとは建築家への道を諦めてください、っていうのは、どうなんだろう。私は、死んでも言いたくない。

もうみんな言ってるけど、これから「建築家」と呼ばれるひとの職能の幅は、広がっていったほうがいいと思うし、そうなることが、時代の要請だと思う。私は、これにどこまで応えられるかが、「建築家」が社会に生き残っていくかどうかの、鍵だと思ってる。「ちゃんとしてる/してない」なんてことより、ずっと。

今ある建築学科が、ほぼどれも「新築を建てられるひとを養成する」場だとしたら、その数はもう、多すぎる。建築という文化が入ってきた明治時代、これからたくさん、これまでとは違う建築物を建てていくんだかんね、ザッツ開国ぅ!っていう当時の国家の考えのもと、これだけ多くの建築学科ができた。ものをつくることを教える学科のなかで、一番数が多いんじゃないだろうか。

でももう、昔じゃなくなった。国がそーいうふーに考えてた時代とは、状況が違っている。このまま数を減らさないなら「新築を建てられるひとを養成する」ばかりでない、新たな試みが、学びの場で実践されていって欲しい。輸入した建築の時代じゃなくて、日本の状況に合わせて、日本の社会から生まれる建築の時代に、ならないかなあって思う。

これだけ小分けに区分された土地を個人所有できる国は珍しく、また新築の住宅を個人で、これだけ建てられる国も珍しい。そーいう国にいるんだもん、普通に、新築を設計するという意味での「建築家」が活躍できる場も、まだまだ現状の社会の中に、眠っているように思う。

そーいう日本の状況を鑑みると、外国みたいに建築家が、超スターで、一握りの天才だけの仕事、って思わなくたって、いいんじゃないかと思う。街に、身近に建築家がいるってこと、もっとひとに寄り添う存在であること、そんな日本だけの建築家像っていうのが、あるんじゃないかと思う。

それに何より、私は建築学というものが好きで、私の個人的な解釈だけど、これって、ひとやおかねや時間や物事や空間や物質、つまり「あらゆるなにかを、しあわせななにかに向けて構築していく学問」だと思ってるの。

さっき「学びの場で新たな試みを」って書いたけど、オールドスタイルの教え方であろうと、そうでなかろうと、いわゆる建築学を授ける場、という軸は、大学教育はぶれていないと思ってるのね。そこは先人を信じてるし、尊敬してるとこ。

建築を学んだコが、実際建築に関わって欲しいと思うのは、まさにここで。建築学を身につけた、さまざまなひとが、建築に関わることによって、建築は多角的で、豊かなものであり続けられるんじゃないかと。

だから、建築が好きな学生に、すっごい才能があるわけでもないし、建築家なんかやったってどうせ喰えないから、やめとけ、なんて、ほんと死んでも言いたくない。いろんなひとに参加して欲しい、いろんなアプローチをして欲しいって、そう願ってる。

 

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田中元子(たなか・もとこ)