mosaki | TOKYOTOKYOTOKYO!!!

大好きな東京から発信する建築系クリエイティブユニットmosaki(田中元子+大西正紀)のブログ

日本人は、もっと褒め合うべきだと思ってるんだ。

日本人は、もっと褒め合うべきだと思ってるんだ。

「バイト先の冷蔵庫での悪ふざけ写真をtweetしたら人生オワタ事件」って結局、バイト先の会社が最大限のに厳しい処遇を敢えて選択してみせた、一種のパフォーマンスだと思う。少しでも甘い隙を見せたならば、モンスター消費者が突っついてくるであろうこと、とにかく事件が尾を引かずに、とっとと収束することが、ひとりの男の子の人生なんかより、ずっと優先的に考えられた。そうさせる社会なのだ。これが、社会的なポーズとして最善であると、選ばれた結果なのだ。

ところで、こういう悪ふざけ系の事件は、

 

ネット上で叩かれやすい。みんな、倫理のハードルを越えてはじけちゃってる人のこと、羨んでるんじゃないのって思う。悪いことした人だけじゃなくて、例えば野茂がドジャースに行ったときだって、世間の風当たりは冷たかった。

日本人は、社会の調和をとるために、ガマンし合ってるんじゃないかと思う。それは時に、行儀良く、互いに譲り合う社会として目に映る。東日本大震災のときは、そんな日本人の規範的な行動が、外国人記者によって感心されたりしてた。でも、誰かがガマンのたがを外したとき、みんなで足並みを揃えるようにして、冷たく当たる。そうされることを、みんなどこかで、わかってる。だから、はじけたくても、ガマンしてる。もはや、ジェラシーなんじゃないかなって思う。

佐々木俊尚さんは「これからやってくる総透明社会では、寛容にならない限り、苦しくて苦しくて堪らない状況になっていくと思いますよ」とtweetしている。総透明化社会とは情報環境の向上であり、つまりは「互いのことが何でもわかってしまうような社会において、互いに許せる気持ちが持てないと、苦しいだけじゃないか」と言っているわけだ。

私はこの点にとても興味がある。自分も含めて、どうしたら寛容になれるのか。それにはやっぱり、ちゃんと口に出して、褒め合うべきだと思うんだ。

誰だって褒められて伸びる。褒めるって言い方がよくないなら、尊重し合うって言い換えてもいい。傷ついたり失敗したりしたとき、挫折や失敗に陥ったとき、それでも誰かが個人として尊重し続けてくれていることは、どれだけ支えになるだろう。誰かに認められているという確信が、どれほどひとを、寛容にしてくれるだろう。

寛容になるには、まず「こころに余裕を持て」ってよく言うけど、そんな命令口調の言葉で余裕なんてものが生まれたら、コトはずっと簡単なんだ。(いや実際は、寛容であることを意識するだけで、だいぶ寛容になれるんだけれども)

互いに寛容な社会って、互いのこころに余裕をつくり合うことから始まるんじゃないだろうか。

たなかもとこ